ssage bod
泣きました。
生前「弥一とちゃんと向き合っていれば良かった」と言っていた涼二。
生前「弥一とちゃんと向き合っていれば良かった」と言っていた涼二。
幸せを祝ってくれる家族がいてうらやましいと。だから、いつかマイクを日本に連れて行って、弥一に紹介したいというのが、涼二の夢でした。
病気のせいでその願いは叶わず、代わりにマイクが弥一と向き合って、きちんと家族になって帰っていきました。
病気のせいでその願いは叶わず、代わりにマイクが弥一と向き合って、きちんと家族になって帰っていきました。
ここの、「もうずっと前から家族じゃないか」ってシーンで涙腺崩壊ですよ。
人と向き合うことには恐怖が付きまといます。自分が心を開いた相手に拒絶されたら心に大きな傷が残ります。
でも人と向き合わなかったことで残る傷もあります。
ここは個人個人の考え方でどちらが正しいというのはないと思います。
私の場合は、向き合わなかったときの方がより傷つくタイプなので、心を開いて傷つくことになっても開きます。
どちらの傷に耐えられないかは個人差があるでしょうし、どっちが正しいということは当然ないわけです。が、それでも涼二と弥一のことを考えると。人間は簡単に死んでしまうことを考えると、やっぱりどうしても行動せずにはいられないと思うのです。
個人的にはセクシャリティや人種による差別というものは、「未知のものへの恐怖心」から生まれるものだと思っています。
「未知のものへの恐怖心」があるからこそ、自分から興味を持って知ろうとする人間もいれば、怖いものからは目を背け、自分からできるだけ遠ざけようとする人間もいる。
後者の中からは差別意識が生まれます。
「未知」の部分を取っ払って見てみれば大抵の人は「普通」の人です。
私にはセクシャルマイノリティの友人も在日韓国人の友人もいますが、みんな普通の人です。普通にいい人。
その人本人を見れば単純な話なのですが、フィルターをかけて見てしまう人もいる。
このフィルターを取っ払うためには全人類がもっと知識を得ることだと思います。
夏菜ちゃんの担任の先生は「小学生にはまだ早い」と言っていましたが、小学生だからこそ「その人本人」を見ることができるのだと思うのです。大体が大人の入れ知恵でどんどん歪んでいくわけですから。
その時代に偏見のないまなざしで人付き合いをした経験が、差別のない社会を作る道なのではないかなと思いました。
※このドラマがそこまで訴えようとしていたかどうかは不明です。