実は読み切ったのは一ヶ月くらい前なんですが、バーンアウト状態だったため少し遅れてのレビューです。ネタバレしまくりです。
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ひっじょーに情けないことに、難しくて内容をつかみ取ることができず、「おもしろかったー」くらいの感想しかありません。格差社会が、とか色々読みどころはあるのですが、「おもしろかった」以外に私が感じたのはたった一点「愛とはなんなのか」というある種の問いかけです。
カズオ・イシグロによる最新作は、例のごとく「信頼できない語り手」による一人称でお話が進みます。で、今回はなんとその「語り手」がAIのクララです。プログラミングされている以上のことは考えられないしできないがゆえに目の前で起こったことを誤認します。それが今回の「信頼のできなさ」となります。
クララは人間の子供の親友になるべくプログラミングされたAIロボット(=AFと呼ばれています)です。この世界では(今より少し未来の模様)ある程度裕福な家庭の子は大体ローティーンでAFを手に入れて一緒に生活するようになるようです。
で、このAFがみんな純粋で善良です。子供の相手をするためにプログラミングされているので当然なんでしょうが、自分を手に入れた子供の幸せをひたすら願うのです。
クララは序盤でジョジーという10代前半の女の子に選ばれてジョジーの下で暮らすことになります。そしてクララは出会ったその日から、ジョジーのことだけを第一に考え、ジョジーの幸せのためだけに行動するようになります。病気がちなジョジーが健康になることを祈り、ジョジーが健康になるために必要だと思ったことを全力でやり遂げます。それはクララの誤認によって我々人間の眼からするとズレた行動だったりするのですが、少なくとも本当にジョジーのことを想って実行されます。
さらにジョジーにひどい言葉を投げかけられても決して怒りません。ジョジーが必要としているときはそばに寄り添い、邪魔してはいけない場面では冷蔵庫の横やドレッサーの脇にそっと移動します。
自分はひたすら与え、見返りは求めない。ただただ相手の幸せを願う。
これが愛じゃなかったらなんなんでしょうか。むしろAIには自分の心がないからこそ、無欲な愛を子供たちに与えられるわけです。
そしてそんな健気なAFに対して人間たちのなんと我儘で冷酷で残酷なことよ……。
そうなるのは当然心があるからなわけです。人間はAIが与えるような「完璧な愛」は与えられません。しかし人間が人を愛せないわけではありません。我々人間だって多少いびつで、自分勝手であっても相手を大事に思う気持ちを持っています。
そして何より、我々が「与えられる側」となった時に、果たして本当に必要なのはどちらなのでしょうか。
AIから与えられる完璧な愛と、人間から与えられるいびつな愛と。
多分、人間から与えられる愛なんだよね。
AIからの愛で救われることだって当然あるだろうけど、それだけで一生やっていけるかと言われたらそれは無理だと思います。
皮肉だけどもそれはたぶんAIに心がないから。自分に何も求めて来ないから。
この辺、クララが終盤で「自分とは他者とのかかわりによって作られるもの」というような分析をするシーンがあるのですが、こことリンクするように思います。
他者がいるから自分がいる、他者とのかかわりがあってこその自分。他者に影響され、他者に影響を与える。色んな他者が入れ代わり立ち代わり人生にやって来て、「自分」はどんどん変化していく。でも「自分」を持たない相手とはそのような関係を築けない。
そしてやはり、ジョジーと、彼女に完璧な愛を与えたクララには切ないお別れが待っています。ジョジーとクララの間に友情や愛情がなかったわけではないと思います。でもそれをアップデートはできなかった。結果、ジョジーはクララを必要としなくなっていきます。
それすらクララは特に傷つくでもなく受け入れます。まぁ当然なんだけど。
最後にクララは自分が最初にいたお店の店長さんと再会します。この人はある意味クララを愛してくれていた人なのかな。彼女との交流があるからなんか救われたような気にはなるんだけども、そもそもクララは別に救われることを必要とはしてなくて、読み手の勝手な感情なのよね。クララはジョジーとの関係に満たされているその気持ちがプログラミングされたものであっても。ジョジーの幸せを願う以上のことはできないわけだから。
でも店長さんがクララのことを人間的に分析というか、評することでクララにとっても「他者から見た自分」が定義されたんでないかなと思います。その交流があったのは、廃材置き場なんですけどもね……。
なんともほろ苦い終わり方のお話でした。
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